休日  23.4×18cm 瑛 九 作 銅版画 18/50

¥55,000

作者は、しばしば夢幻的な要素とシュールなイメージが融合した独特のスタイルを持っており、この作品もその特徴をよく表しています。

画面には、風変わりな形状のオブジェクトや自然の要素などが散りばめられ、現実と非現実の境界をあいまいにしています。

彼の作品は、視覚的な魅力とともに、観る者に多くの想像の余地を与えることで知られています。

 

1911年 宮崎県宮崎市に生まれる(生家は宮崎市内で眼科医院を営んでいるが、極度の近視のため家業を継ぐことはできなかった) 本名は杉田秀夫

1925年 宮崎中学校(現宮崎県立宮崎大宮高等学校)を中退して上京
日本美術学校卒業

1934年 生涯の友人となる画家の山田光春(当時は教員)と出会う

1935年 中央美術展に初入選
山田らと芸術家クラブふるさと社を結成(この頃より美術評論家の外山卯三郎や、画家の長谷川三郎と親交を深める)

1936年 4月に瑛九の名でフォトグラムの作品集『眠りの理由』を40部限定で刊行
10枚の写真を表紙に挟んだもので、ページ番号・作品番号等の付与がないため順番や天地が不明となっている  
瑛九のフォトグラムはマン・レイらのそれとは異なり、デッサンに基づいた型紙を使うことなどから、フォト・デッサンと称された

1937年 第1回自由美術家協会展に、コラージュ作品群《レアル》を出品
第二次世界大戦後は、絵画や版画(銅版画、リトグラフ)の制作に力を入れた

1951年 埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)に移住し精力的に製作活動を行う
また同年、泉茂や早川良雄らとともにデモクラート美術家協会を結成
自由美術家協会、創造美育協会等にも参加し、オノサト・トシノブと深い親交を結ぶ

1960年 心不全のため48歳で死去
妻の都は瑛九の死後も再婚せず106歳になるまで彼の作品を守り美術館に寄贈などを続けた